東京高等裁判所 平成8年(ネ)3156号 判決 1998年9月30日
控訴人 中村保夫
控訴人 中村文子
右両名訴訟代理人弁護士 川端和治
同 山岸洋
被控訴人 日本赤十字社
右代表者社長 藤森昭一
右訴訟代理人弁護士 平沼高明
同 堀内敦
同 加々美 光子
同 小西貞行
同 平沼直人
同訴訟復代理人弁護士 水沼裕美
主文
一 本件控訴を棄却する。
二 控訴費用は控訴人らの負担とする。
事実及び理由
第一申立て
一 控訴人ら
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人は、控訴人らに対し、それぞれ二五九二万七〇〇〇円及びこれに対する平成三年三月九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
3 訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。
4 仮執行宣言
二 被控訴人
本件控訴を棄却する。
第二主張
主張は、次のとおり付け加えるほか、原判決の「第二当事者の主張」に記載のとおりであるから、これをここに引用する。
一 原判決書五頁五行目から同六行目にかけての「右愛美の右心のう液から」を「前日に採取した愛美の心臓の周りの液から」に、同九行目の「骨」を「創」に、同六頁三行目の「傷」を「創」にそれぞれ改める。
二 控訴人らの当審における主張(因果関係)
愛美のMRSA感染は、ICU内においてMRSAが、愛美の体内に挿入されたカテーテルを介して愛美の血中に入り、心臓内の異物(パッチ)へと感染した結果生じたものである。
このことは、MRSAは抗生物質を多用する病院内で常在し、病院外では他の細菌に駆逐されて常在していないこと、当時の被控訴人病院内ではMRSAが蔓延していたこと、無菌的な操作のできない看護婦等がICU内で愛美の看護に当たるなどICU内の感染防止対策に不備があったこと、愛美がMRSAを保菌していた証拠は全くないこと(仮に愛美がMRSAを保菌していても、MRSAは人の細胞を通過する能力がないからこれが愛美の心臓内のパッチに移行することはない。)等の事実から明らかである。
医療事故の因果関係については、一点の疑義も許されない自然科学的証拠ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明すれば足り(最高裁判所昭和五〇年一〇月二四日判決・民集二九巻九号一四一七頁参照)、本件においてその証明は十分されている。
第三証拠関係<略>
第四当裁判所の判断
当裁判所も、控訴人らの請求はいずれも理由がないものと判断する。その理由は、次のとおり付け加えるほか、原判決の「理由」に記載のとおりであるから、これをここに引用する。
一 原判決書二三頁四行目の「回りに」を「周りに」に、同八行目の「及び愛美が」から同一〇行目の「死亡したことは」までを「、愛美がMRSA感染による縦隔炎と診断されたこと及び愛美が同月九日午後三時三〇分に死亡したことは」に、同二四頁三行目の「証人清水進の証言」を「証人清水進の証言(原審及び当審)」に、同二七頁二行目の「アミノグリコシド系統」を「アミノグリコンド系統」に、同二八頁八行目の「骨」を「創」に、同二九頁一行目の「右手術」を「右再切開」に、同五行目の「三度目」を「二度目」に、同八行目の「愛美は、」を「三月六日、愛美に対し三度目の手術が行われた。しかし、愛美は、」にそれぞれ改める。
二 同三六頁三行目の「甲第一六号証の一ないし三」を「甲第一一号証、第一二号証、第一六号証の一ないし三」に、同四行目の「証人清水進の証言」を「証人清水進の証言(原審及び当審)」に、同三九頁一〇行目の「環境細菌検査」から同一一行目の「行われていなかった。」までを「昭和六二年八月一〇日から同月一九日までの間、手術室とICUの関係者に対して保菌検査を実施したが、それ以外には保菌検査をしていなかった。」に、同四六頁六行目の「消毒用のアルコール製剤」を「エタノール液」にそれぞれ改め、同四七頁九行目の「証人清水進の証言及び弁論の全趣旨によれば、」、同四八頁三行目から四行目にかけての「ことが認められる」をそれぞれ削り、同五〇頁二行目の「照らすと、」の次に「右消毒殺菌等の措置をした事実をもって」を加え、同三行目の「との疑いをまったく」を「可能性を」に改める。
三 同五〇頁五行目冒頭から同五四頁二行目末尾までを次のとおり改める。
「5 右に認定した事実を総合すると、愛美は本件手術中及びその後の時期に手術室又はICU内においてMRSAに感染したと推認されるが、具体的な感染源及び感染経路については、前記考えられる可能性(2) の<1>ないし<5>(引用にかかる原判決書四九頁)のうちのいずれに当たるのか未だ解明されていないということができる。
控訴人らは、ICU内において、MRSAが、愛美の体内に挿入されたカテーテルを介して愛美の血中に入り心臓内の異物(パッチ)へと感染した旨主張している。この点につき、証人清水進は、当審において「切った皮膚の傷から中に入る可能性は少ないと思います。」、「中心静脈カテーテルからかどうかは分かりませんが、少なくとも血中から感染が起こったと考える方が私は自然だろうと思っています。」と証言するが、血中から感染が起こったとした場合の感染経路や機序について説明はなく、また原審では、愛美の心臓の穴をふさぐため又は右心室の出口を広げるのに使用した布(パッチ)にMRSAが付着していた可能性が高いが、最初からこの布にMRSAが付いていたのではなく、真ん中の傷に問題があってその傷の治癒が遷延するうちにその布にMRSAが残る格好になって発症した可能性が高いことを指摘し、当審においてもICU内より手術中の方が感染の危険性が高いことを指摘しており、愛美の症状自体からカテーテルを介しての感染であることが明らかであるとか、その可能性が強く示唆されるともいえない(これを認めるに足りる証拠はない。)から、前掲当審における証人清水進の証言を直ちに採用することは困難である。
さらに同証人は、当審では手術後五日を経過して発症した点を捉えて手術場で感染したのならもう少し早く発症すると思う旨証言するが、原審では、同証人が調査したところ手術時から早い人で二、三日、遅い人で二週間後に縦隔炎が発症している旨証言した上、愛美の発症時期から見て手術室及びICUのいずれで感染したのかを断定することはできないと証言しており、この点でも証言が一貫していない。そして、MRSAは人の鼻腔等に常在し得る細菌で健常人でも保菌していることがあり、通院患者にも保菌者がおり(甲第三号証、第九号証、乙第一八号証及び原審証人太田美智男の証言)、病院内にだけ常在している細菌ではない(甲第三号証、乙第一九号証)。また感染経路は複数考えられ未だ十分に解明されておらず(医療従事者の手指を介しての伝播が最も多いといわれ、空気感染、飛沫感染等による伝播についての指摘もされている。甲第八号証、第一三号証、乙第二〇号証)、このようなことから、医療施設及び医療従事者は常に感染の危険に曝されており、消毒体制に基づいて手術室やICU内の消毒を実施したからといって手術室及びICUからMRSAを完全に駆除することは困難である。愛美の本件手術の術創に感染の形跡がない(当審証人清水進の証言)とすれば傷口からの感染は否定できようが、それでも手術中に感染した可能性は否定できず、愛美のMRSA感染症の症状及び発症時期から感染の時期、場所、経路を解明することは困難である。もっとも、乙第一号証、原審及び当審証人清水進の証言によるとMRSA保菌者がICUで愛美と同室しており、しかも無菌操作を十分できない看護婦らが愛美の看護をしていたことが認められるが、右看護婦らによる愛美への感染を具体的に推測させる事実を認めるに足りる証拠はないから、右保菌者から感染したとの事実、あるいはICU内でMRSAに感染したとの事実を高度の蓋然性をもって推認できるものではない。以上のとおりであるから、証人清水進の前記証言をもって控訴人ら主張の感染経路を認定するのは困難であり、他にこれを認めるに足りる証拠はない。控訴人らの因果関係に関する主張(ICU内における感染)は採用できない。そうすると、問題になるのは、手術中又はその後の時期における手術室内での感染ということになる(なお、原審証人太田美智男の証言は、心臓手術後のMRSA感染の危険性、ICU内における交差感染の危険性等を強く指摘するものであるが、手術室内における感染の可能性は否定していない。)。
6 ところで、一般的に医療過誤の原因として有意に考えられるいくつかの具体的可能性のいずれもが当該医療契約上における医療機関の債務に結びつき得るものであり、これと無関係なものが含まれていない場合には、右のいずれに当たるとしてもそれぞれの場合において医療機関の債務不履行が認められることがあり得るから、単に右可能性のいずれが当該医療過誤の原因であるのかが不明であるというだけで医療機関の債務不履行責任を否定することはできない。そして、前記考えられる可能性(2) の<1>ないし<5>(引用にかかる原判決書四九頁)はいずれも本件医療契約上の被控訴人の債務に結びつき得るものであるから、右それぞれの場合について被控訴人の過失があるか否かを検討する必要がある。
7 そこで、前記問題とされる手術室内での感染の可能性という観点から、まず手術上の処置及び手術室内の消毒について判断する。
被控訴人の手術室内の消毒体制は前記のとおりであり、右体制が当時の医療水準のもとで同種医療機関の手術室内の消毒体制と比較して特に劣っていたとか安全を欠くものであったと認めるに足りる証拠はない。そして原審証人清水進の証言によると、本件手術時には右体制に基づく消毒が実施され、手術上の処置も通常どおり行われ手術は問題なく終了したことが認められるから、医療機関に通常求められている手術上の処置及び手術室内の消毒は履行されていたということができる。そして本件手術の実施に当たり被控訴人又は清水医師が手術室内でのMRSA感染の具体的危険性を認識又は予見していたこと、あるいは予見することが可能であったと認めるに足りる証拠はないから、手術室内におけるMRSA感染について被控訴人又は清水医師の過失を問うことはできない。
もっとも、本来手術室は無菌であるべきであるから、手術室内でMRSAに感染したとすれば、そのこと自体で被控訴人又は清水医師の過失が推定されるとの見解もあり得ないではない。しかし、MRSAは人の鼻腔等に常在し得る細菌で健常人でも保菌していることがあり、現に入院患者や外来患者からMRSAが検出されており(甲第三号証、第九号証、乙第一八号証)、医師や看護婦等の医療従事者は、MRSAを保菌している患者と接触する機会が多いため常に感染ないし保菌の危険に曝され、また保菌者が来院することは不可避であるため病院内のMRSA汚染を除去することは容易でなく、定期的に細菌検査をして保菌者の治療等を行ったとしても新たな保菌者等の感染源から感染することが常に起こり得るから、病院内に徹底的な消毒体制を敷いて一時的にMRSAを駆除し得たとしても、病院内から恒常的にMRSAを駆除することは困難である。したがって、医療機関としては一般的に相当とされる消毒体制を敷いた上、特別の事情により必要が生じた場合に更に徹底した予防措置や消毒を実施することで対応せざるを得ず、その場合でも所定の消毒体制に基づいて消毒を実施したにもかかわらずMRSAが手術室内に残存する可能性はなお否定できないと考えられる。手術室内におけるMRSA感染を防止するという観点からは手術を実施する都度手術室内を徹底的に消毒することが望ましいが、そのようなことは現実の医療実務のもとでにわかに実行できる事柄ではない。また医師や看護婦のMRSA保菌検査をすることは有益な対策の一つではあるが、単に定期的に検査を実施するというのでは検査後の新たな感染を探知することはできずMRSA感染の防止策という点で大きな効果は期待できない(さりとて、手術をする度ごとに関係医師や看護婦のMRSA保菌検査をするというのでは医師らの負担が大きすぎ、到底実現できるものではない。)から、こうした検査の実施が被控訴人に義務づけられているということはできない。
医療機関には手術室内を無菌状態に維持すべき注意義務があり、右注意義務はその当時の医療水準のもとで必要とされる最善の注意義務でなければならないが、そうであるからといって、具体的な注意義務違反の事実の判断を抜きにしてMRSA感染の事実から直ちに無菌状態に維持すべき注意義務を怠った過失を認定することはできるものではない。前記のとおり被控訴人病院の手術室では当時の同種医療機関が実践しているのと同程度の消毒体制が敷かれており、本件手術に際して特別な消毒体制を採る必要性は見当たらず本件手術にもことさら問題はなかったのであるから、被控訴人又は清水医師に過失はなかったというべきであり、前記のようなMRSAの特質や除菌の困難性を考えると、MRSAに感染したとの事実をもって右注意義務を怠ったと推定することはできない。
なお、控訴人らは、ICU内での感染の危険性を考え、ICUの徹底した消毒を実施しないのであれば本件手術をすべきでなかったと主張する。しかし、被控訴人病院のICU内では前記のとおりの消毒体制が敷かれており、右体制が当時の医療水準のもとで同種医療機関のICU内の消毒体制と比較して特に劣っていたとか危険なものであったと認めるに足りる証拠はない。また清水医師はそれまでに年間五〇例ほどの心臓手術を実施してきたがMRSA感染が生じたのは一例ほどで臨床的には問題化しなかったこと及び同医師が手術後の愛美をICUの個室ではなく大部屋に収容していること(原審証人清水進)に照らすと同医師はICUの消毒状況について本件手術の実施を危ぶむまでの具体的な危険性の認識を有していなかったことが認められる。そして本件手術は清水医師が愛美の症状を検討した結果手術の必要性を認めて実施したものであるから(原審証人清水進)、不要不適切な手術とはいえない。したがって、控訴人らの右主張は採用できない。
なお、原審証人太田美智男は病棟内でMRSA感染者や保菌者が増えた場合にはその病棟の手術を中止し、必要に応じて他の病院に送る旨証言しているが、多くの文献はMRSA感染者の隔離や接触隔離等の必要性に言及するのみで手術回避の必要性には触れておらず(甲第一ないし第六号証、乙第一七ないし第二〇号証)、右太田証人の見解は一般的とは言い難い。
8 以上に判断したところによれば、手術室における処置及び消毒について被控訴人又は清水医師の過失を認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はないから、愛美が被控訴人の手術室においてMRSAに感染した場合には被控訴人の債務不履行責任を問えないことになる。
そうすると、愛美のMRSA感染の因果関係が特定できていない本件においては、そのほかの場合について過失の有無を検討するまでもなく被控訴人又は清水医師の過失は立証されていないことになるから、控訴人らの本件請求は理由がない。」
第五よって、本件控訴は理由がないから、これを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法六七条一項本文、六一条、六五条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 新村正人 裁判官 岡久幸治 裁判官 宮岡 章)